2007年5月30日水曜日

アルジャーノンに花束を・・・その3

エリザベス・ムーン の 「くらやみの速さはどれくらい」 という小説があります。
これもSF小説です。

21世紀版「アルジャーノンに花束を」である、という書評を見て手に取る気になりました。実際のところ、主人公が知的障害者であるということ、正常に近づくための手術を主人公が受けるという設定は似ていますが、本当に21世紀版「アルジャーノンに花束を」でしょうか。 

主人公 ルゥは自閉症というハンデを背負っていますが、製薬会社に職を持ち、自立した生活を送っています。 ルゥよりあとに生まれた子供たちは 胎児のうちに自閉症を発見し、治療することが出来る技術が開発されたため、普通の生活をしています。つまり、ルゥとその仲間たちは最後の自閉症世代なのです。 ある日、上司の思惑のために、ルゥに 自閉症治療手術の機会がやってきます。ルゥは手術を受ける決心をしました。

ルゥが、手術を目前にしてハーバー滝という公園へ行き、自然を五感で味わう場面があります。・・・・自閉症である自分を自然は差別しない、認識しない。・・・手術に対するこわさを感じながらも今の今を感じて味わおうとするルゥ・・・その感性の鋭さには 嫉妬してしまうくらいです。

ルゥはある意味では 正常、ノーマルとされる人間をこえる能力を持っていますが、人間社会の基準では ルゥは劣った人間ということになります。しかし、ノーマルであるはずのドンはルゥに対し、恋敵として病的なまでに嫉妬し、異常な行動にでます。 正常とはなにか、という規範はどこまで妥当なのか・・・考えさせられます。

作者のエリザベス・ムーンは自閉症児のおかあさんだそうです。 その子が 「くらやみの速さはどれくらい?」とたずねたことから この小説は始まったと聞きます。

自分自身は正常、自閉症児はハンディキャップ、という割り切り方が一般的です。


でも、ルゥ、ドンを比較するとき、正常 とは何なのか という疑問が頭をよぎります。

2007年5月27日日曜日

Hot Yoga

Hot Yogaという ヨガをご存知でしょうか。
その名のとおり、高い室温の部屋で行うヨガのことです。

最近注目を集めている「ホットヨガ」ですが、他のヨガと最も違うところは「温度」と「湿度」です。通常、スタジオ内の温度を38℃、湿度を65%に保っており、その暖かいスタジオ内で60分または90分のヨガのポーズを行なうことで、筋肉が伸縮しやすくなり、体の硬い人でも無理なく安全に柔軟性が増してきます。
また、温度と湿度のバランスから大量の汗をかきます。「ホットヨガ」を初めて体験された方はまずこの汗の量にびっくりされます。レッスン中に多い人で1リットル以上のお水を飲みながらポーズをとる為、効率よく身体の水分循環が行なわれます。
汗をかくことにより、毛穴に詰まった汚れや老廃物が排出されて、瑞々しいお肌になるだけでなく、ストレス解消にも大変役立ちます。
さらに、ヨガの基本である深い呼吸によって細胞のエネルギー源である酸素を体内に取り入れ、有酸素運動を行なうことで脂肪が燃焼しやすくなります。また、普段動かしていない筋肉をいろいろなポーズで動かすことで、全身にしなやかな筋肉がつき基礎代謝が高まります。
つまり、心と身体の両面から、健康で理想的なボディメイクが実現できます。
―――ホット ヨガ スタジオ オー のHPより

高温に保った部屋の中でヨガをおこなうという話をしてくれた友人は このタイプのヨガをビクラム ヨガと呼んでいました。そうコンセプトに違いはないようです。
わたくし自身 この暑い中での60分には 正直 二度、三度と続けていけるものかと思いましたが、二回目のクラスではかなり体が慣れており、同じ高温の中で60分をすごすなら、岩盤浴よりも有益ではないかと思われました。

2007年5月25日金曜日

アルジャーノンに花束を・・その2

「アルジャーノンに花束を」について書きたくて先日の文章を書き始めたのですが、そのSF小説に行き着かないままに終わってしまいました。

そこで 今日のトピックは

「アルジャーノンに花束を」

大好きな小説です。

主人公はチャーリー。チャーリーは知的障害者。小説は脳手術前のまだ、めちゃくちゃなつづりの三月三日の報告から始まっています。チャーリーは脳手術をうけて 正常 そして それ以上の存在になってゆきます。しかし、チャーリーははたして幸せになったのでしょうか。

アルジャーノンはチャーリーとおなじ脳手術をうけた白ねずみの名前。 チャーリーにとっては特別の存在です。賢くなったはずのアルジャーノンはある日えさを与えようとしたファイに噛み付きます。アルジャーノンはどうしたのでしょう。

そして、悲しいことに、この出来事はチャーリー自身に起こることのまえぶれでした。

「ひとにわらわせておけば友だちをつくるのわかんたんです。」

これはチャーリーの最後のメッセージです。

ダニエル・キイスのこの小説、ユースケ・サンタマリアがドラマで演じていました。ご存知の方も多いでしょう。また、1968年には クリフ・ロバートソンという俳優が主人公を演じた「チャーリー」という映画になっていますが、なんとこのクリフ・ロバートソン、最近では「スパイダーマン」ピーターのおじさん、ベン・パーカーを演じていました。

さてさて この小説をはじめ、障害をもつ人たちを主人公をしたSF小説がいくつもあります。その世界を前にすると、正常者であるということが、なんぼのもんじゃい!!という気になります。人間とは 正常というレッテルをもつ者であれ、障害者というレッテルをもつ者であれ、悩めるものであることはちがいありません。

2007年5月23日水曜日

アルジャーノンに花束を

SF小説が好きです。

気がついたら 読む小説、読む小説、SF小説ばかりでした。

SF、Science Fiction・・・空想科学小説、などといいますね。
現実とはかけ離れた状況設定・・・宇宙空間、火星、未来都市、海底都市、登場人物も宇宙人だったり、超能力者だったり、・・・そんな小説です。
今では Star Warsシリーズが大ヒットしていますし、映画でもSF的な設定が全盛ですから、説明するまでもないでしょうが。

そういえば 少し前に公開された デンゼル・ワシントン主演の「デジャ・ヴ」もSF映画といってもいいでしょうね。「時空を超えたアクション巨編」と宣伝されていたくらいですから。

題名に惹かれて観ました。なかなかロマンティックな題名ではありませんか。いろいろ映画の中には「デジャ・ヴ」的な出来事がちりばめられています。が、いちばんの「デジャ・ヴ」は映画の最後にくる出来事の発端、あるいは発生要因なのではないでしょうか。とても練られてあります。

ちょっと気になるのが、「プログラム 白雪姫」・・・なんで 白雪姫 なのでしょうか。 
クレアのことでしょうか。 

なぜ これほど このジャンルに魅かれるのかを考えてみますと、同じような内容を描いた普通の状況設定の小説に比べてすべてがいきいきと感じられるから、という答えが返ってきました。舞台設定が、地の果てや宇宙空間、異次元世界、原始時代、そこまで極端ではなくても、ふつうの生活の中で、ちょっと未来というだけで、テーマが特化されてくるように思えます。現実世界でも感じられるような思春期の悩みが SF小説の中では突然とくべつのものとなり、波乱万丈の場面展開を迎えることになるから不思議です。

2007年5月16日水曜日

感じること

ご自身が感じている世界の広さをかんがえたことがありますか?

今日 成田空港から飛行機に乗れば、明日には、というより、同じ日付のうちにアメリカ大陸のどこかに着くことが出来る、というように 交通機関が発達して 世界のどこでも比較的簡単に行けるようになった。 明治のころには 船旅で 何ヶ月もかかったものなのに。
あるいは 通信網、Webなどのおかげで 世界のどこで何が起きているのかほぼ即時に知ることが出来るようになった。自宅にいながらにして 全世界の情報が手に入る。 だから 世界は、地球は狭くなった。

そういう類のことではありません。

今 自分が見ている、体験している世界がどれくらいの範囲に広がっているかということです。
自分がコミュニケーションのアンテナの受信可能領域をどれくらいまで広げているかと言い換えてもよいでしょう。 
どれだけの範囲をみようとしているか、でもあります。

その範囲のちがいとは 何から出てくるものなのでしょうか。意識をどこにおいているから 変わってくるものなのか。それとも 意識の原点が変化するから 変わってくるのでしょうか。また、それは いま見ている世界でも関心のあるものは見えるけれども、関心がなければ視野に入っているのにぜんぜん認識していないものがある ということと 似ている、あるいは 関わってくるものなのかもしれません。

毎日 通っている道すがらだから、目に入っていたはずなのに 今日はじめてあるビルの二階の窓が 素敵なデザインであることに気がついたり、 その上の窓から ぬいぐるみが見下ろしていたり・・・・
あるいは、パスタに関心を持ち始めたら 職場のちかくに意外とイタリア料理店がたくさん見つかったり・・・たけのこではありませんから急にイタリア料理店はポコポコ生えてきたりしませんよね。
また いつもはその道端から空がみえることなど気にもしなかったのに、急に空に気がついて心が広がり、はれやかな気分になることも ありますね。 

すべては 気の持ちようなのかもしれませんが、その変化には驚かされます。

2007年5月12日土曜日

5月6日 今日は 雨です。

この季節の 雨の風情が 好きです。
雨が降っていても、もの寂しいとか うっとおしいとか、凍りつくようなとかいった感覚とは無縁だからです。
言葉であらわせば、そういうことになりますが、
違う角度から見れば、それは 気温、体温、雨の温度、それらの関係が 離れすぎず、近すぎず、ちょうどいい間隔を保っていることになるかと思います。
というのが 科学的には 正しい 推測なのでしょうが

・・・・味気ないです。
むしろ、この季節の雨は 肌になじむものがあるからだ、といいたいですね。

なぜ? 

季節は 数字ではなく、感覚でとらえたいから。

感覚はことばでは伝えきれない・・・というのは ジレンマです。

言葉は人間の間の共通記号ですから、なくてはならないものですが、必要最低限 です。
見たこと、聞いたことを客観的に伝えていくにはよいのでしょうが、
感じたことを伝えるには 不充分です。触覚とか、嗅覚とか、味覚とか。
自分の感じたことは、言葉では 完全には伝わらないでしょう。

五感の中でも 嗅覚はとくに言葉からとおい感覚で、イメージと直結しているとか。
マルセル・プルーストが マドレーヌを 食して 思い出が よみがえったという エピソードを思い出します。


マドレーヌの香りと思い出、 それはプルーストだけの感覚と思い出の結びつきで それを読者は疑似体験するだけ。
プルーストの体験を読者は完全に追体験することはできない。

その考えは 自分という存在を とてもいとおしく大切な存在と感じさせてくれます。

2007年5月6日日曜日

つれづれなるままに

つれづれなるままに、
日暮らし、硯にむかひて、
心にうつりゆくよしなし事を、
そこはかとなく書きつくれば、
あやしうこそものぐるほしけれ。


日本人にとっては どなたもかならず一度は 目にしたことのあるであろう、
吉田兼好の徒然草、序段です。

占い師の家系に生まれ、三十代で武士を辞し、出家、比叡山にて仏門修行。
その人生の中からうまれでた無常観、
蒙古襲来の二年後に生まれ、鎌倉幕府の衰退、足利尊氏の室町幕府を見てきたという、
時代背景に裏打ちされているのでしょうが・・・
それは
人生の羅針儀が指し示すさきを見極めようとおもう 今、
座右におきたい書物です。

そして、noir フランス語、黒
それまで 与えられるままに 享受してきた色の氾濫に疑問をいだき、
三十代で選びとった おのれの いろ です。
当時は それこそ、よろい、だったのですが、
それから 何年もたった今は、もうなくてはならない いろ です。
黒は 色ではないのですよ、と アドバイスしてくださった方が ありましたが、
なぜか 手放すことが出来なかった いろ です。
たしかに、むかしは 弔いの色でしたし、夏には 決して着ない色でした。
いまは 時代がかわったとでもいうのでしょうか、
そんな 禁忌は だれも気にしませんが・・・
それも おのれの人生にあった出来事として 
必然・・・では 意味が強すぎますが、
なくてはならなかった episodo です。

徒然 を ennui と 訳した 辞書がありました。
あたらずといえども、・・・・とおからずとも いえそうですが、
それもまた おもしろくかんじられます。



それほど深く考えずに 選びとった 

「徒然」と「noir」

意外にも だいじな Keyword だったかもしれません。